この話何回するの?って感じだけどどういうことか自分なりに結論づいたのでまとめようと思います。Twitterにも上げたくないし。
結局のところ、今まで私は勉強も部活も趣味もかなり頑張ってきたし、その努力のよる報酬的なものもたくさん受け取ってきたんですよね。
勉強を頑張ってきたからテストでいい結果を出して友達よりもいい高校に入って堅実に自分のやらなきゃいけない勉強をして入りたかった国公立に入って。その過程で先生たちにも褒められて。部活もほとんどサボらず参加してきちんと練習して、最終的には褒めてもらったり、いろいろな人に「頑張ったね」と行ってもらい。辛かったこともたくさんあってもやっぱりスポーツってきちんとやればやっただけ「達成感」が段違いであります。体力とか体を使って追い込まれるから、記憶にも残りやすいし。大切な友達もできたし、青春を謳歌できた。で、その合間とかストレス発散に絵を描いて。自分のために絵を描いて、自分のために練習して、そして周りにも褒めてもらい。
いろんなことに真面目に取り組めばその結果に対して、またその努力を費やした私自身に対して素敵なフィードバックが帰ってきてくれました。それが私の健全な自己肯定感を育ててくれたし、精神力がメキメキ上がった。
褒めてもらうのも褒めてあげるのもとっても得意になれました。
こうしてみると、やっぱりかなり褒めてもらって生きてきたんですよね。周囲よりもできる子っていう自負があったんですよ。
それがこのコロナ下。最初はきちんと取り組めていたものの、なれない大学生活とオンライン授業という、自制心が全くない私にもっとも向かないこの授業形態。学んでいることの面白さを分かりつつも、とても頭に入ってこないかつその知識を利用する場の喪失、減少。
私の原動力って何よりも生きてきた中で育てられた「私はできる子」っていう自負心からくる「負けたくない」「下に見られたくない」なんですよね。賢い、できる人間でいたい。そう思っているので、他者と関わって他者がこういう風に取り組んでいるのに、私はこう、とかこの人はこれしかやっていないのに私はこれだけやっている、っていう確認をしょっちゅうします。そうすることでモチベーションの維持ができるので。だけどそういう場がほとんどなくなってしまって日常的に自分のやっていることがこのクラスの中でどのような位置付けであるのか全く確認できなくなってしまい、どうしようもなくなってしまったんですよね。看護学言論が楽しかったのも結局班員が全員使えなくて「ああ、私しかわかってないんだ」って理解できたからだと思う。
そしてサークルに入らないからリフレッシュも達成感もなく、コミュニティも全く広がらず。さらにはバイトも東京にいた時と比べて本当に死ぬのかってくらい面白くない、もしくは面倒臭いところに入ってしまい、「達成感」も「自己肯定感」も何っっっっも得られなくなってしまいました。
エンジンは元々生まれつき大きいかつ性能がいいものを親からもらえたのでよかったのですが高校時代あれほど満タンだったガソリンが2年を経て大枯渇状態。何事の現実を見たくないし、やる気が出ない。一人暮らしを始めて適応しなくてはいけないこと、日常にタスクが増えたこともあると思います。
だからこそ、SNSに固執して、数字ばかり気になって、その世界のことがその日の気分を左右するにまで至ってしまったの、めちゃくちゃ不健全ですよね。
だからこそ褒めてもらいたいし、私の今の状態を認めて欲しいから電話して確かめちゃうんですよね。
でもできてないことを認めてもらっても、自分が認めれないから結局何の意味もなくて。私も自分のことを認めてる、これっていいことだよね?っていうことに対する確信をもたらしてくれることが私にとって褒めてもらうことの意味なので。頑張ったことを褒めてもらえなきゃ、全然意味がない。
今、オンライン留学っていうタスクが発生してて、それに結構救われてますな。なかったら本当にテストを頑張れなかった無気力さと自分に対する否定感で今頃うつ病にでもなっていたのではないだろうか。
それでも自分の絵が好きになれないって私の中のパロメーター的に相当やばい。かなりやばい。もう、本当にやばい。ありえない。
人生で生きてきて自分の絵が下手だなと思ったことはあれど嫌いと思ったことなんて一度もなかったのに。相当心が病んでますね。当たり前なんですけどね。できてない自分に一番腹立ててるの自分。
は〜〜。コロナ死ね〜〜〜